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リレートーク 21走目

2020.06.03 Wednesday

自粛中に季節は移ろい、早紫陽花の頃となりました。

 

長龍郎さんからの質問にお答えします。
僕はいろんな事を知っているように見えるかもしれませんが、ただ好奇心が旺盛なだけで、どれもかじった程度のものを人に話さずにはいられないだけです。要ははったりをカマしているのです。
これからもそのはったりを聞き流していただければ幸いです。

次に政貴さんに質問します。
コロナ後の我々邦楽界の人間は、どんな活動をしていったらいいのでしょうか。

松永忠一郎

リレートーク 20走目

2020.05.31 Sunday

今藤長龍郎です。

皆様、無事平穏でお過ごしでしょうか。
世の中の情勢は少し落ち着いてきたようですが、気持ちが緩みすぎないよう、気をつけながら過ごしております。

福原徹同人からいただきましたお題「三味線とピアノは、弾く立場としてどのような違いが大きいと思われますか?あるいは差はないのか?」、悩みに悩みましたがそれぞれあると思います。あくまで僕個人の意見としてお答えします。違っている事もあるかと思います。長くなります事、お許し下さい。

「弾く立場としてどのような違いが大きいと思われますか」ですが、まず一つ目としてピアノは協奏曲・何重奏曲・声楽の伴奏・ピアノ連弾などを除き、一般的な演奏(リサイタル及び発表会)はソロがメインですので、良くも悪くも一人で作品を成立させます。
(余談ですが、ピアノ協奏曲は一度弾いてみたかったですが、技術と練習量が伴わず叶いませんでした。大勢のオケ・指揮者と対等に演奏するピアニストの方、大尊敬します)
ソロですから、極端な事を言えばどのような形でも演奏は成立すると推測します。急激なテンポの変化や弾きながら小声で歌ってしまうのも、ある程度認識されている演奏家でしたら許されると思いますし、そのような方の門下生でしたら、師匠の真似をする事も多いと思います(逆もあるかもしれませんし、お弟子さんには推奨しないフラットな考えの方もいるかもしれません)。
三味線においては舞台にいる皆で作品を作りますので、演奏が歌えている(テンポや強弱に流れがある)事は大事だと思いますが、唄の方より歌い過ぎたりするとほかの演奏家との足並みが揃わず、結果的にアンサンブルにならなくなります。
逆に、唄やお囃子が歌っている(テンポの揺れ含む)のにマイペースに弾くのも、弾いているご本人の演奏は安定しているかもしれませんが、一緒に演奏している方々は息を吸っている最中に吐くような流れになってしまいます。
ピアノでも、これはOK・これはNGの境い目があると思われますが、ソロの分多少緩めではと思います。
まわりの様子を伺う事は大事ですが伺いすぎて自分を見失う事もあり、バランスを取るのは難しいと、今更ながら感じます。
もう一つですが、構造上の違いですが三味線は舞台で微調弦しながら演奏・ピアノは弾きながらの調律は不可能という事です。
これはどちらが良いかわかりませんが、三味線でしたら調弦に明け暮れて曲に入れない場合もありますし、ピアノの場合音のうねりで演奏に集中できなかった…となります。
両方とも、ある程度での線引きが必要かもしれませんが、僕の場合本番だと緊張からより音が取りにくい状態になり糸巻に手が行ってばかりになってしまうので、かえって弾きながら調律できないピアノのほうが諦めがつくかな…と思ったりもします。
楽器も、著名なピアニストの方はご自分で持ち込む場合もあるかもしれませんが、ピアノは大概ホールにあるピアノを製作メーカーのみ指定した上で、楽器とは当日出会い演奏します。
僕らが着物と撥など小物のみ持って行って、ホールで「今日の三味線はこれです」はあり得ないので、大きな違いだと思います。
「あるいは差はないのか」ですが、一つは、聴衆目線ですが三味線なら一つ目に弾く音・ピアノなら鍵盤に指を乗せ下ろした瞬間で、グッと引き込まれる感じでしょうか。音の大小ではないです。
この瞬間は、演奏者も聴衆も息をのんでいると思います。
演奏家目線だと、意識しすぎると精神的に良くないと思いますが…
もう一つですが、練習用の楽器(三味線でしたら稽古用三味線・ピアノでしたらアップライトピアノ)でも、ほぼその人の音色がするという事でしょうか。
これは本当に面白いと思います。
極端な事を言いますと、響かせる技術を卓越して持っている方だと練習用の楽器で本番用のような音を出せてしまいます。僕はそのような場面に練習ではありますが何度か遭遇し、すごいやら自分の力にがっかりやら、複雑な気持ちになってしまいました。
話が脱線してしまい、すみません。
次ですが、松永忠一郎同人に質問します。
忠一郎さんとは初めてお会いしてから30年以上経ちます。
とにかく、長唄はもちろんですが邦楽全般に詳しいですし、インテリア(内装リフォーム含む)からお酒のカクテルの種類まで何でも知っていて、尊敬します。僕の後輩が25歳くらいの忠一郎さんの事を「ベテラン」と言っていたのを思い出します。
その幅広い知識を持ち合わせる源というか、原動力になっているもの(事)はなんでしょうか?
ぜひお聞かせ下さい。

今藤長龍郎
追伸
最近、新潟に住む知り合いから送っていただいた写真で、新潟市にある上堰潟(うわせきがた)公園の湖だそうです。
この地域では普通の風景なのかもしれませんが、東京に住む人間としてはなんて贅沢な空間なんだろう!と、感動してしまいました。
このようなところで歌ったり楽器を弾いてみたり、ゴロンと転がってウトウトしてみたいです。

リレートーク 19走目

2020.05.22 Friday

title:リレートーク 19走目


こんにちは。笛吹き同人の福原徹です。
金子泰同人発案によるリレートークも、三周目に入りました。

さて、今藤政太郎同人からのお題「この頃思うことを教えてください。」
あまりに漠然とした、かつ深遠な問いかけで、難しい。
いつまでも唸っているわけにもいかないので、とにかく書き始めてみます。


いろいろ思います。
新型コロナウイルス感染の恐怖。亡くなられた方々へのお悔やみ、苦しんでおられる方々へのお見舞の気持ち。ウイルスと日々戦っている方々の努力、勇気への感謝と敬意。また、人々の生活を維持するために働き続けて下さる方々への頭の下がる思い。ウイルスそのものや生命というものについても改めて考えさせられています。
感染症が世界におよぼす影響。人々の反応、対応。
この状況で露呈された、様々の問題。
そして、これからの社会の変容。芸術、芸能の行方。

特に強く感じているのは、自分自身がいかに脆弱なところで生きているか、常識とか当然と思っていたことがいかに危ういものなのか、ということです。

そこでなぜか突然に、師匠(六世福原百之助=四世寶山左衞門)の言葉を思い出しています。

私が師匠のお供をしていたころの話です。
たしかNHKでの収録の帰り、渋谷駅に向かう路線バスの中。車内はすいていて、一番後ろの席だったと思います。
師匠に、「この道で生きていくために一番大切なことは何か」というようなことをお尋ねしました。
私は藝大を出たばかりで血気盛ん。お仕事を少しずつ頂くようになり希望に溢れ意欲満々でありながら、一方で本当にこれで生きていけるのかという不安もありました。
猛烈に師匠を敬愛していたので、恥ずかしげもなくこのような質問をしたのだと思います。私は大真面目でした。強烈な、そして仲間や後輩たちに「語れるような言葉」を、期待していました。

師匠にお会いになったことのある方はご存知と思いますが、師匠はいつも笑顔で優しく、わかりやすく丁寧に時に軽妙に、お話をして下さる人でした。
ところが、この時は珍しく長い間じっと黙って考えておられました。
そして、静かな表情の師匠の口から、低い声でただ一言。
「最後は人柄だね。」

それを聞いた私は、なんだか拍子抜けしたような気持ちになりました。
もっとカッコいい言葉を待っていたのに、「人柄」?

この言葉の重みをいくらかでも感じられるようになったのは、ずっと後のことです。
もちろん、「人柄」と言っても、いろいろな意味や見方があるでしょうし、全てのことを「人柄」だけで片付ける訳にもいかないと思います。
でも、たしかに、最後はその通りなのかも知れない。
先程、師匠の言葉を「突然に…思い出しています」と申しましたが、実を言うと、この言葉が、ここのところ頭から離れないのです。


お恥ずかしい話を長々と失礼いたしました。



今回の写真は、アムステルダムの国立美術館に行った時のものです。レンブラントの「夜警」です。1642年の作品で、とても大きな集団肖像画です。(この写真では手前に私が立っているので大きさが感じられないかも知れませんが。)夜警という題名は18世紀以降に呼ばれている通称です。
この作品の2年前の自画像が、いまロンドンから上野に来ています。


リレーのバトン、今度は今藤長龍郎同人にお渡しします。
長龍郎さんは子供の頃、かなり真剣にピアノに向かっておられたんですよね。
三味線とピアノは、弾く立場として、どのような違いが大きいと思われますか。あるいは、あまり差がないのか。
聴く側とか一般論としての話ではなく、長龍郎さんご自身が弾いている時の感覚の違いのようなところをお聞かせいただけると嬉しいです。

福原徹
  • カテゴリー:福原 徹
  • 2020年05月22日(金) 10:46
  • -

リレートーク 18走目

2020.05.16 Saturday

『勧進帳』は、歌舞伎でも長唄でも指折りの人気演目です。
 ぼくが『勧進帳』でまず第一に思うのは、ともかく長唄がよくできているということ。
『勧進帳』の長唄は、お芝居の「ト書き」だけを演奏するようなものです。にもかかわらず、相応の方が演奏なさると お客様が皆喜んでくださるという、たいへん珍しい曲です。
そのくせ技術的にはそれほどでなくても弾けます。これは、いかに四世杵屋六三郎(杵屋六翁)が作曲者として優れているか、その力を端的に示すものです。

そして、弁慶と富樫という、判官義経を取り巻く人たちの自己の利害を超えたところにドラマがスリリングに展開されていくところが、劇としても成功しているのだと思います。
 
ここでぼくは不審に思うのですが、長唄の『勧進帳』の元である能の『安宅』では、富樫は弁慶の嘘を見抜けず、逃してしまったということになっているらしい。もちろんこれは能の方によく聞いてみなければわかりませんが、ともかくそのようです。
でも歌舞伎の方では、弁慶は滅びゆく運命の主君義経に、忠義というよりまさに人間の情というべき不思議な力に突き動かされて、知恵と勇気とで守り切っていて、富樫は途中で(あるいは最初からかもしれない)それと知りつつ、自分の部下たちを騙してまで、義経主従の美しさに打たれ、まさに自己の利害を犠牲にして関を通し、一行を逃がします。
歌舞伎の『勧進帳』ではどうしてこのようになったのか、ここがぼくの興味あるところです。それはやはり、幕末の江戸の人たちの気持ちを舞台が代弁しているからではないでしょうか。江戸人の心意気が舞台に反映されているのだと思います。

富樫はその後どうなったのでしょう。
どうしてそのような行動に出たのでしょう。
そこがたいへん気になっています。そのあたりのことを何か作品にしてみたいと思っています。
 
次の質問は福原徹さんにします。
この頃思うことを教えてください。
 
今藤 政太郎
画像のかわりに、ぼくの“テーマソング”を。↓↓↓クリックしてね!

リレートーク 17走目

2020.05.11 Monday

美治郎さんの貼られた画像に見とれています。
遠く輝く月。その下には、貴人の袖を翻したような藤の花房。
そして「詞の作り方を」というご質問。

……むむ?
「もう5月も半ばだけど、秋の本会で発表する『融』の歌詞はどうなっているの?」という裏メッセージの気配がする(深読みし過ぎ?)。
その『融』を引き合いに出しつつ、我流無手勝流で恐縮ですがお話させていただきます。

歌詞のことばを書き出す前に、
・題材を決める(古典の何かか、オリジナルか)、と同時に焦点を考える
・どういう性質、テイストで行くか、と同時にことばの時代感を考える
・歌詞の構成(話の流れ)
を決めます。

『融』でいえば、花鳥風月の「月」をテーマにしたものと最初から決まっていたのと、他の曲を見渡して、一つは能由来のものがあってもよさそうだったのとで、この題材にしました。
お能の『融』は、昔、源融(みなもとのとおる)が自邸である京都六条河原院に陸奥の塩竈をうつして塩を焼いていた話を基にして、知らずにその廃墟に来た僧の前に融が現れるというものです。「月もはや 出汐になりて」で始まり「月もはや 影かたぶきて」と終わる曲です。

金子 世阿弥.jpg
見ていると時間がどんどん経ちます

『融』のように古典作品を下敷きにする場合、その世界を借りながら、どう読み替え・作り替えて、演奏の編成のことも想像しつつどのような邦楽にするかを考えます。下敷きのものがない時も然り。
どのような邦楽、というのは、唄ものなのか、筋のあるものなのか、新しみをどのくらい入れるか、みたいなところです。
作曲者と相談してみたりもします。

その上でいよいよことばを書き始めますが、ワードからセンテンスへ、パラグラフへ、とことばの繋がったところから始めることが多いです。
ちょうど、ジグソーパズルで四隅を決めたら、ここかな?と思ったピースから置いてみるようなものです。
それを見てあらかた予想がついたら、頭から書き出します。もちろん、書き出してみて、これはつまらないなと思ってやり直すことも多々あります。

歌詞は曲(音楽)がついてこそのものなので、ことばを尽くして思いの丈を書き連ねるというより、文字数と音も考えつつ、ことばの一つ一つの喚起力を大事にして簡潔に表すように、音楽にも十分にうたってもらえるようにと思っていますが、これがなかなか難しい(から面白いとも言えます)。
ちなみに、現在『融』は、頭から書き始めているところです。遅くなっておりますが…いやこれは決して“蕎麦屋の出前”ではありません!

現代の楽曲でも一回聴いただけで全部の歌詞が聞き取れるわけではないので、まして古語交じりの邦楽の歌詞が全部聞き取ってもらえるとは思いません。どこか引っかかるところがあればとは願っています。

こんなところですが、どうもパッとしない話でお粗末様です。

さて気をかえて、今藤政太郎同人に繋ぎます!
『勧進帳』は、長唄であれ歌舞伎であれ、これまで数えきれないほど演奏され、御覧になってきたと思いますが、三人の主要人物―弁慶、富樫、義経―の中で、政太郎先生が最も肩入れしてしまうのは誰ですか? どういうところが?そしてそれは曲の解釈や演奏にも反映していましたか?

金子 泰
  • カテゴリー:金子 泰
  • 2020年05月11日(月) 11:30
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