blg_ttl_21.png

創邦21同人
(五十音順)

  • 今藤 長龍郎
  • 今藤 政貴
  • 今藤 政太郎
  • 今藤 美治郎
  • 金子 泰
  • 杵屋 淨貢
  • 清元 栄吉
  • 福原 徹
  • 松永 忠一郎
  • 米川 敏子

新コンテンツ登場
毎月更新!

2020年10月23日
第17回作品演奏会

thumnail

2020年3月11日
第12回創邦21公開講座
「創作のキモ」

2019年2月21日
第10回創邦21公開講座
「創作のキモ」

/a>

2017年11月8日
第15回作品演奏会

2017_soho21.jpg

2017年7月21日
第8回創邦21公開講座
「創作のキモ」

kimo_2017.jpg

2016年11月8日
第14回作品演奏会

創邦21チラシ

2016年6月22日
第7回創邦21公開講座
「創作のキモ」

創作のキモ_2016

2015年11月5日
第13回作品演奏会

omote_01.jpg

2015年8月17日
第6回創邦21公開講座
「創作のキモ」

bunner_kimo_201508.jpg

2015年1月7日
第5回創邦21公開講座
「創作のキモ」

2015_kimo.jpg

2014年10月8日
第12回作品演奏会

チラシ

> リレートーク トップページ

リレートーク 23走目

2020.06.27 Saturday

こんにちは。今藤政貴です。
前回のリレートークは中途半端なことになってしまいました。
忠一郎さんからの質問「コロナ後の我々邦楽界の人間は、どんな活動をしていったらいいのでしょうか」への返事のつづきを書きます。

前回 述べました通り、邦楽界では少なくとも年内、 ほとんどの舞台が休止状態になりそうなので、当分は事実上インコロナの状態です。
個人事業主のための給付金などもあり、それはありがたいことなのですが、休職に近い状態が10ヵ月以上にも及びますので、かなりキツいです。
現状、もっとも心配なことは、この状況がずーっと長引き、廃業者が続出してしまうことで、
この危機的な局面で邦楽界の人間が 邦楽を生業として生きていくために、
いま流行りのテレワーク演奏や、ライブ配信なども試みられつつあります。
それらは、いま可能な表現として、あるいは今後の活動を広げるための試みとしても、有意義ではありましょうが、今のところ経済的には大きな意味を持ちません。
なにしろ質の高い視聴覚媒体は世にあふれていますし、その道の専門家もあまた いますので、それに伍して収益を得ることは、容易なことではありません。
というわけで、当面の課題に対する有効な手だては なにも見出せていないわけですが、それでも地道な努力が きっと将来の邦楽を豊かにするのではないか、そう信じて、歯を食いしばりながら、いろいろと模索を続けるよりなさそうです。
 
さて、そしていつかはアフターコロナと意識される時期が来ることでしょう。
そうなったときに、ぼくらがすべきは まず一度は冷静になることなんじゃないかと思っています。
いま、ぼくは正解がわからず立ち尽くしています。右往左往さえできていません。
たぶん大概の人たちも、立ち尽くすか、右往左往しているんじゃないでしょうか。そういう状況のなかで、アフターコロナの行動様式とか生活様式のスタンダードが語られつつあります。
今後の展望は当然必要で、ぼくもいま まさにそれについて考えているわけですが、
いまの流れに引きずられ過ぎるのは危険な気もしています。現在の空気のなかで妥当な判断が得られるのか?
たとえば、
人と会うときには必ずマスクせねばならないとか、
帰宅するたびにアルコール消毒すべきとか、
せまい部屋にすし詰めの飲み会は避けるべしとか、
回し飲みなどもってのほか、
みたいな新スタンダードが、アフターコロナ=ウィズコロナの時期だけでなく、アフターコロナ=ゼロコロナの時期にも常態化しそうで、ちょっとした恐怖を感じるのです。
いま、私たちは新型ウィルスをうつし合わないことをテーマにいろんな活動を控えています。おそらく現状では必要なことなのでしょうが、
よく語られるコロナ後の行動様式にも、当然とは言え、その発想が引き継がれていて、
まるで人々が同じ空気を吸うのが悪いみたいなニュアンスを感ぜずにはおれません。
いったいそのスタンダードはいつまで続くのでしょうか。
仮にゼロコロナ期になっても、新型インフルエンザの例をとるまでもなく、未知のウィルス感染症は数限りなく出現します。
治療薬のない新型ウィルスなり細菌なりの感染症が流行するたびに、同じようなことになるのか。あるいは、予防的な意味で常にアフターコロナ スタンダードが"常識"となるのか。

となると、満員の聴衆の前で演じることも、舞台の上で 大勢の演者が所せしと躍動することもできなくなってしまうのでしょうか。
ぼくらにとって、やはり舞台の仕事は本当に大切です。邦楽界の人間として、ぼくは舞台を大事にしたいです。
このご時世、視聴覚媒体づくりの努力も必要ですし、今まで以上の素晴らしい作品がきっとできることでしょう。
映像には映像ならではの素晴らしさがあります。
それと同じように、
生の舞台には生ならではの特別な魅力があります。
まず舞台は、演者と観衆・聴衆との統一物です。たとえ、元の内容が一緒でも、演者のコンディションが同じとは限りませんし、観客は毎日入れ替わります。
その演者たちと観客が、同じ時間・空間を共有することで、
今日だけの 一期一会の作品(舞台)が出来上がっていく、そういう醍醐味は、舞台のほかではなかなか味わえません。
たとえば、そこにいるだれもが 息を吸うこともためらうような静寂や緊張感。
たとえば、小さなアトリエにお客さまがギュウギュウになったときの熱気、高揚。
さらには、取り返しのつかないがための恐怖、失望、落胆などをひっくるめてそれを共有できるのは、生ならではです。
しかし、いまは満員でもスカスカの客席で、お客さまは声を立てて笑ったり、歓声を上げることも憚られる状態です。
また、舞台上でも演者同士がソーシャルディスタンスを守らなくてはならなかったり、声を張り上げることもできない、という状況でパフォーマンスが成立するのでしょうか?
制約がかかることで、工夫がすすみ、芸術が進歩するということは歴史的によく見られることで、事実 いまもいろんなところで工夫がなされ、なんらかの進歩もありましょうし、努力は続けるべきではありましょう。
しかしそれにしても、現状の制約は尋常ではありません。
危うし、舞台芸術。

話を戻します。
いま書きつつある文章を読みかえすと、冷静さを欠いた自分がよく見えます。
敵が見えていない、と言いましょうか。
ぼくだけでなく、いまの新型コロナに対する反応は、総じて客観性を欠いたものが多いように思います。

いくら舞台芸術が大切とはいっても、お客さまの健康を損なうようなことがあっては元も子もありません。一方、市民の文化的生活が失われてしまうがための心身のリスクも無視することはできません。
また、素人考えの一般論を申せば、
ウィルスのうつし合いを避ける、という基本的な生活の指針も極端化や長期化すると、長い目で見れば むしろ危険にさえ思えます。
「ウィズ コロナ」とは少し意味合いが違いますが、
もともと、人類(というか生物)は「ウィズ ウィルス、ウィズ 細菌」で生きてきたわけで、「うつし合」うことで、免疫力はじめ いろんなものを得てきたはずです。言うまでもなく、いまの潔癖的な生活様式はそういう機会をも減らしていることになるでしょう。
今後の社会活動、そして我らが舞台活動がどうあるべきかを判断するにあたっては、
今回の新型コロナの例外性や危険性がどの程度だったのか、
どのような対策が有効であったのか、
自粛的な生活が社会にどのような影響をもたらしたか・・・などといった観点からの 客観的な評価が必要となってきます。
あと1年とか2年とかくらい経ったとき、このコロナ禍について どの程度の正確さで総括できるようになっているのかはわかりません。が、少なくとも今よりは情報が揃っているはずです。
そのあかつきに、少し冷静になって客観的かつ総合的に将来を考えることが肝要なのだと思うのです。
それまで、ぼく自身は少しでもマシな仕事ができるよう 努力をしつつ、なんとか生き延びなくてはなりませんが😅

まとまりのない長文、御免ください。

最後に、金子さんに質問。
金子さんの「こころの故郷」はどこですか?

今藤 政貴


著者近影

5ヵ月ぶりに髪を切りました、
事情で染めるのはやめました。

リレートーク 22走目

2020.06.16 Tuesday

こんにちは。
今藤政貴です。
忠一郎さんより、すこぶるヘビーな質問がまわってきました。
なにしろ、ぼく自身が途方に暮れている状態です。
それでも、これからのことについて、思うところがなくもないので、
たぶん支離滅裂になりますし、なにか建設的なことを言える自信もありませんが、
いま、思ったり感じたりしていることを書いてみようとおもいます。
 多くの業界同様、わたくしたち邦楽界(に限らずおそらくほとんどの舞台芸術関係の業界)をとりまく環境は、かなり厳しいものとなっています。
どうにか緊急事態宣言は解除されて、ぼくの住む東京でも、少しづつ社会がまわるようになってきて、それは嬉しいことですが、
ぼくらの辛いところは、その動きがこちらの業界の歯車に届く見通しの立たないことです。一度中止になった舞台が復活することはありませんし、それどころかいまも(今日も😢)舞台のキャンセルの連絡が続いています。いまのようすだと、ぼくらの舞台活動がある程度まで戻ってくるのは、楽観的に見ても来年の春頃になるでしょう。
ですからコロナ後を迎える前に、まずはコロナの渦中をどうにか切り抜けなくてはないわけで、
きっと“イン コロナ”と"アフター コロナ"の境界もわからないまま一日一日が過ぎていくのでしょう。
いずれにしろ、邦楽人としても一市民としても、
当面のこと、それから もう少し落ち着いた先のことまでを深刻に考えずにはおれませんね。
 そんないま、まず何よりも大事なことは、
いろんな意味でのコンディションを整えて、良い作品、良い演奏を作り上げる、あるいはその準備をすることでしょう。
当たり前過ぎるような、しかも本来これはどんな状況でも同じことなので、いまさら特筆することでもないようでもあるのですが、どうもそれがそうも言えない気がするのです。
もしかしたら、これはぼくだけのことなのかもしれませんが、
とにかくいま、舞台がなくて、表現の場がなくて、生活の糧がない、いつまでこの状態が続くかもわからない大きな不安にさいなまれていて、
 そこから脱却したい、早く元の日常に戻ってほしい、
こう思う一方、
 いつもの、舞台を目前にした緊張、不安から解放され、
こんな状況にも関わらず、少しホッとして、緩んでしまっている自分を意識せずにはおれません。
何十年もずーっと綱渡りを続けてきたのが、いまは地べたに腰をおろしている状態。また、綱の上で立ち上がれるのだろうか?このまま、もとの現場に戻れるものなのか?正直こわいです。
 忠一郎さんからいただいた質問の内容からは はずれてしまうかもしれませんが、ぼく個人としては、いまさらながら現状に正面から向き合って、立ち向かえる心技体をつくりなおすことが第一の課題なんじゃないかと思っています。
 
そのうえで、この情勢のなかで、何をめざし、どんな活動をしていくべきか。
まだなにも述べられていません。
リレートークなので、本当ならだれかにお回ししなくてはいけないのですが、
もう少し自問自答すべく、
「つづく」とさせていただきます。
著者?近影。舞台がないので、かれこれ4ヵ月床屋に行ってません。きっと床屋に行ってない人多いんだろうなぁ。

今藤 政貴

リレートーク 21走目

2020.06.03 Wednesday

自粛中に季節は移ろい、早紫陽花の頃となりました。

 

長龍郎さんからの質問にお答えします。
僕はいろんな事を知っているように見えるかもしれませんが、ただ好奇心が旺盛なだけで、どれもかじった程度のものを人に話さずにはいられないだけです。要ははったりをカマしているのです。
これからもそのはったりを聞き流していただければ幸いです。

次に政貴さんに質問します。
コロナ後の我々邦楽界の人間は、どんな活動をしていったらいいのでしょうか。

松永忠一郎

リレートーク 20走目

2020.05.31 Sunday

今藤長龍郎です。

皆様、無事平穏でお過ごしでしょうか。
世の中の情勢は少し落ち着いてきたようですが、気持ちが緩みすぎないよう、気をつけながら過ごしております。

福原徹同人からいただきましたお題「三味線とピアノは、弾く立場としてどのような違いが大きいと思われますか?あるいは差はないのか?」、悩みに悩みましたがそれぞれあると思います。あくまで僕個人の意見としてお答えします。違っている事もあるかと思います。長くなります事、お許し下さい。

「弾く立場としてどのような違いが大きいと思われますか」ですが、まず一つ目としてピアノは協奏曲・何重奏曲・声楽の伴奏・ピアノ連弾などを除き、一般的な演奏(リサイタル及び発表会)はソロがメインですので、良くも悪くも一人で作品を成立させます。
(余談ですが、ピアノ協奏曲は一度弾いてみたかったですが、技術と練習量が伴わず叶いませんでした。大勢のオケ・指揮者と対等に演奏するピアニストの方、大尊敬します)
ソロですから、極端な事を言えばどのような形でも演奏は成立すると推測します。急激なテンポの変化や弾きながら小声で歌ってしまうのも、ある程度認識されている演奏家でしたら許されると思いますし、そのような方の門下生でしたら、師匠の真似をする事も多いと思います(逆もあるかもしれませんし、お弟子さんには推奨しないフラットな考えの方もいるかもしれません)。
三味線においては舞台にいる皆で作品を作りますので、演奏が歌えている(テンポや強弱に流れがある)事は大事だと思いますが、唄の方より歌い過ぎたりするとほかの演奏家との足並みが揃わず、結果的にアンサンブルにならなくなります。
逆に、唄やお囃子が歌っている(テンポの揺れ含む)のにマイペースに弾くのも、弾いているご本人の演奏は安定しているかもしれませんが、一緒に演奏している方々は息を吸っている最中に吐くような流れになってしまいます。
ピアノでも、これはOK・これはNGの境い目があると思われますが、ソロの分多少緩めではと思います。
まわりの様子を伺う事は大事ですが伺いすぎて自分を見失う事もあり、バランスを取るのは難しいと、今更ながら感じます。
もう一つですが、構造上の違いですが三味線は舞台で微調弦しながら演奏・ピアノは弾きながらの調律は不可能という事です。
これはどちらが良いかわかりませんが、三味線でしたら調弦に明け暮れて曲に入れない場合もありますし、ピアノの場合音のうねりで演奏に集中できなかった…となります。
両方とも、ある程度での線引きが必要かもしれませんが、僕の場合本番だと緊張からより音が取りにくい状態になり糸巻に手が行ってばかりになってしまうので、かえって弾きながら調律できないピアノのほうが諦めがつくかな…と思ったりもします。
楽器も、著名なピアニストの方はご自分で持ち込む場合もあるかもしれませんが、ピアノは大概ホールにあるピアノを製作メーカーのみ指定した上で、楽器とは当日出会い演奏します。
僕らが着物と撥など小物のみ持って行って、ホールで「今日の三味線はこれです」はあり得ないので、大きな違いだと思います。
「あるいは差はないのか」ですが、一つは、聴衆目線ですが三味線なら一つ目に弾く音・ピアノなら鍵盤に指を乗せ下ろした瞬間で、グッと引き込まれる感じでしょうか。音の大小ではないです。
この瞬間は、演奏者も聴衆も息をのんでいると思います。
演奏家目線だと、意識しすぎると精神的に良くないと思いますが…
もう一つですが、練習用の楽器(三味線でしたら稽古用三味線・ピアノでしたらアップライトピアノ)でも、ほぼその人の音色がするという事でしょうか。
これは本当に面白いと思います。
極端な事を言いますと、響かせる技術を卓越して持っている方だと練習用の楽器で本番用のような音を出せてしまいます。僕はそのような場面に練習ではありますが何度か遭遇し、すごいやら自分の力にがっかりやら、複雑な気持ちになってしまいました。
話が脱線してしまい、すみません。
次ですが、松永忠一郎同人に質問します。
忠一郎さんとは初めてお会いしてから30年以上経ちます。
とにかく、長唄はもちろんですが邦楽全般に詳しいですし、インテリア(内装リフォーム含む)からお酒のカクテルの種類まで何でも知っていて、尊敬します。僕の後輩が25歳くらいの忠一郎さんの事を「ベテラン」と言っていたのを思い出します。
その幅広い知識を持ち合わせる源というか、原動力になっているもの(事)はなんでしょうか?
ぜひお聞かせ下さい。

今藤長龍郎
追伸
最近、新潟に住む知り合いから送っていただいた写真で、新潟市にある上堰潟(うわせきがた)公園の湖だそうです。
この地域では普通の風景なのかもしれませんが、東京に住む人間としてはなんて贅沢な空間なんだろう!と、感動してしまいました。
このようなところで歌ったり楽器を弾いてみたり、ゴロンと転がってウトウトしてみたいです。

リレートーク 19走目

2020.05.22 Friday

title:リレートーク 19走目


こんにちは。笛吹き同人の福原徹です。
金子泰同人発案によるリレートークも、三周目に入りました。

さて、今藤政太郎同人からのお題「この頃思うことを教えてください。」
あまりに漠然とした、かつ深遠な問いかけで、難しい。
いつまでも唸っているわけにもいかないので、とにかく書き始めてみます。


いろいろ思います。
新型コロナウイルス感染の恐怖。亡くなられた方々へのお悔やみ、苦しんでおられる方々へのお見舞の気持ち。ウイルスと日々戦っている方々の努力、勇気への感謝と敬意。また、人々の生活を維持するために働き続けて下さる方々への頭の下がる思い。ウイルスそのものや生命というものについても改めて考えさせられています。
感染症が世界におよぼす影響。人々の反応、対応。
この状況で露呈された、様々の問題。
そして、これからの社会の変容。芸術、芸能の行方。

特に強く感じているのは、自分自身がいかに脆弱なところで生きているか、常識とか当然と思っていたことがいかに危ういものなのか、ということです。

そこでなぜか突然に、師匠(六世福原百之助=四世寶山左衞門)の言葉を思い出しています。

私が師匠のお供をしていたころの話です。
たしかNHKでの収録の帰り、渋谷駅に向かう路線バスの中。車内はすいていて、一番後ろの席だったと思います。
師匠に、「この道で生きていくために一番大切なことは何か」というようなことをお尋ねしました。
私は藝大を出たばかりで血気盛ん。お仕事を少しずつ頂くようになり希望に溢れ意欲満々でありながら、一方で本当にこれで生きていけるのかという不安もありました。
猛烈に師匠を敬愛していたので、恥ずかしげもなくこのような質問をしたのだと思います。私は大真面目でした。強烈な、そして仲間や後輩たちに「語れるような言葉」を、期待していました。

師匠にお会いになったことのある方はご存知と思いますが、師匠はいつも笑顔で優しく、わかりやすく丁寧に時に軽妙に、お話をして下さる人でした。
ところが、この時は珍しく長い間じっと黙って考えておられました。
そして、静かな表情の師匠の口から、低い声でただ一言。
「最後は人柄だね。」

それを聞いた私は、なんだか拍子抜けしたような気持ちになりました。
もっとカッコいい言葉を待っていたのに、「人柄」?

この言葉の重みをいくらかでも感じられるようになったのは、ずっと後のことです。
もちろん、「人柄」と言っても、いろいろな意味や見方があるでしょうし、全てのことを「人柄」だけで片付ける訳にもいかないと思います。
でも、たしかに、最後はその通りなのかも知れない。
先程、師匠の言葉を「突然に…思い出しています」と申しましたが、実を言うと、この言葉が、ここのところ頭から離れないのです。


お恥ずかしい話を長々と失礼いたしました。



今回の写真は、アムステルダムの国立美術館に行った時のものです。レンブラントの「夜警」です。1642年の作品で、とても大きな集団肖像画です。(この写真では手前に私が立っているので大きさが感じられないかも知れませんが。)夜警という題名は18世紀以降に呼ばれている通称です。
この作品の2年前の自画像が、いまロンドンから上野に来ています。


リレーのバトン、今度は今藤長龍郎同人にお渡しします。
長龍郎さんは子供の頃、かなり真剣にピアノに向かっておられたんですよね。
三味線とピアノは、弾く立場として、どのような違いが大きいと思われますか。あるいは、あまり差がないのか。
聴く側とか一般論としての話ではなく、長龍郎さんご自身が弾いている時の感覚の違いのようなところをお聞かせいただけると嬉しいです。

福原徹
  • カテゴリー:福原 徹
  • 2020年05月22日(金) 10:46
  • -

2020年06月

 123456
78910111213
14151617181920
21222324252627
282930    
<< June 2020 >>

アーカイブ

ページトップへ